最近は、それぞれの自治体が独自に放射線量を調べていて、私の住む千葉県のある市も市内約一三〇カ所の計測結果を発表している。それを見ると、私の住んでいる町は自分で測った0・25マイクロシーベルト程度とほぼ同じ結果だった。高い数字を出したのは木に囲まれた公園や人工芝を使った陸上競技場など、私がロードワークなどで好んで訪れている場所だった。このような場所は、子どももよく遊びにくるが、0・44マイクロシーベルトなどとけっこうな数値が出ており、まことに残念に思う。横浜市港湾部の工場地帯周辺に住んでいたときは三年で喘息を発症し、環境のよいところで暮らそうと思って引っ越してきたのにこのざまだ。放射性物質と暮らす日々はしばらく続くがどうしようか。東京電力に白紙委任し、株主総会で原発推進に賛成した大株主の生命保険会社(リスクにもっとも敏感な職業であるはずなのに!)は、放射線量の多い地域に暮らす人を生命保険や医療保険、がん保険の加入などで区別したら許さないぞ。 (平井康嗣)
今週号は久々にトヨタ自動車に関する記事を入れた。当時の北米トヨタは、今の日本における東京電力のようなものと想像してもらえればいいかもしれないが、この問題はいまだに終わっていない。
人命に関わる事故、閉鎖的な企業文化、消極的な情報公開、リーダーシップの欠如などなど。あらゆる点で批判され、社会問題になる条件をお釣りがくるくらい揃えていた。米政府は、トヨタについて公式に二つの機関に検証調査を依頼。一方、トヨタ自ら調査委員会を設置、市民団体も検証した。東電事故においてもせめて同等規模の検証調査をし、かかった費用は税金ではなく、東電が制裁金として政府に支払うのがいいだろう。
中でも、厳しく追及したのが、ラルフ・ネーダーとチルドレンたちである。
ネーダーを有名にした一つは、{Unsafe at any speed>(『どんなスピードでも自動車は危険だ』)という本だ。東電に置き換えれば、「どんな原発でも危険だ」となろうか。リスクへの構えは、かように必要ではないか。 (平井康嗣)
六月初旬、当社では被災地となった岩手、宮城、福島の定期購読者のみなさんに、「被災状況調査アンケート」を実施しました。被災された定期購読者の方々がおられることは間違いなく、現況が非常に気になっていたからです。いただいたアンケートの返信ハガキのメッセージ欄には多くの方の声をいただき、本当にありがとうございました。僭越ではありますが、一部を紹介させてください。
「自宅は原発より二二㎞の所です。不安な毎日を送っています」
「原発事件では毎日放射線量を確認して生活しています」
「こどもは外で遊べず、成長に必要な経験をさせてやれません! 人生が狂ってしまいました」
「津波では多くの友人、知人の悲惨な状況を知り、只痛哭するのみです」
「今後も被災者の目線での報道を期待します」
など、たくさんの現況報告やメッセージをいただき、私たちが反対に励まされました。さらに気を引き締め報道を続けていきます。 (平井康嗣)
編集長後記
震災から三カ月を受けた六月一一日――。ともかく原発をやめろと訴えるデモや企画が開催された。世界中で一〇〇万人の参加を目指し、日本国内では一〇万人が参加したという。私は、二万人規模の新宿デモを取材し参加した。この前日、『週刊金曜日』とたんぽぽ舎共催の福島に住む母親を呼んだ講演会を開催しニコニコ動画が生中継したが三万人近く視聴された。いまだに原発への怒りはおさまっていない。
一方、これと裏返しに、原発推進の動きや反原発の揚げ足取りも強まっている。こちらは、少数の政財界人や識者たちで、執拗に自分らこそが“正しい情報”だと言い続けている。だが、このようなことに惑わされてはいけない。正しい情報を追い求め続けるあなたには、実は決断する機会は死ぬまで訪れない。科学は未完成だし、真理はどこにあるのかわからないし、わたしたちの情報は常に不十分なのである。自分の直感を信じて、決断するしかない。
さて、一〇〇万人デモの気合いに吹き飛ばされない誌面をつくらねば。 (平井康嗣)
編集長後記
今週号のタイトルは迷った。「放射能と食卓」もしくは「放射能と食品」と考えていたのだが、いざ、もとき理川さんのイラストがあがってきたら、牛や豚や鶏の鼻っ面に「食品」という文字を置くことがいやになった。なんだか人間中心主義丸出しだからである。
私はきまぐれにベジタリアンをやったことはあるし、マクドナルドや牛肉を個人的にボイコットしていたこともあるが、いまではあらゆる肉を美味しく食べている。定期的にホルモンを食べたくなって、足立のもつ鍋屋や、立石のもつ焼き屋の暖簾をくぐる。ただ鯨食論争に至らなくても、動物を食べることについての議論になると死刑制度についての議論と同じくらい場が暴力性を帯びて熱することがある。殺して当然だ、食べて当然だと言い切る相手を見て不快さを感じたことはたびたびある。
私が生きるためにいろいろな命を奪っていることは、しょうがないと思っている。生きたいから。しかし人間中心の欲望を開き直り続けていてはだめだ。原発も開き直っていたらなくならない。(平井康嗣)
編集長後記
今週号の東京電力の記事で、佐高さんが木川田一隆について書いている。木川田は、日中国交回復以前に中国に渡っている。資本主義の権化である財界トップが、共産主義の国にすんなりと入れるものではない。特別のパイプがあったのだろうが、型破りだ。
こういうときでもないと言及する機会もないので触れるが、木川田が暮らした千葉県市川市は私の生まれ育った町だ。永井荷風が住み、村上春樹の『1Q84』の主人公の出身地でもある。実は木川田の孫は小学校の同級生で一年生のときにいきなり誕生日会に呼ばれて家に行ったことがある。家は大きくて、じいさんが東電のエライ人だとは聞いていたが、その数年前に原発を福島県で営業させていた人物だとは最近まで知らなかった。性格が違うので彼とは親友にはならなかったが、振り返ると小学校から高校まで同じだった人間は彼ともう一人だけだ。親近感を覚えていただけに今の東電の腐れ体質には違和感を覚える。会社にも寿命があるということなのだろう。 (平井康嗣)
編集長後記
ヤフー、アイフォンと米国ビジネスを買い取り巨大化してきたソフトバンクの孫正義社長が東日本ソーラーベルト構想をぶちあげている。ビル・ゲイツが東芝との次世代原子炉開発はじめエネルギー事業に乗り出そうとしていることを考えれば、孫社長が関心を持っていても不思議ではない。
一方、脱原発への批判も始まっている。マスコミでいえば読売や産経。自然エネルギーは二〇年前からある古い議論で成功していない、やはり原子力エネルギーは先進国には必要だという”古くさい”論理だ。このような状況では、孫の“ベンチャー”精神を応援したいと思うが、孫かあー、と溜息も隠せない。
二〇〇九年六月一二日号のソフトバンク特集でホリエモンこと堀江貴文氏に話を聞いたことがある。「孫さんは超巨大になる会社を大金で買うスタイル」「貪欲」と指摘していたが、つくづくその通りだと思う。高い買い物をする、莫大な借金をして「大きすぎて潰せない」を狙う、株式会社だから実は本人はノーリスク……。眉に唾つけて見守ろう。(平井康嗣)
編集長後記
『週刊金曜日』を含むメディアに対してだけでなく、教育や教科書へも読み解く力(リテラシー)が必要である。その際、何を教えられているかに目をこらすことは当然である。一方で何が教えられていないのか、を見ようとすることも大切だろう。いずれにしても子ども自身には難しく、大人の責任は重い。
さて、私もそうだが、友人の家族は子どもへの放射能汚染を気にしている。最近、水道水の汚染は「基準値」以下になっているが、飲ませないほうが安心だ。彼の家族は、これまでお目にかかったことのない韓国製のペットボトル水を買い込んでいた。安いと言うがタダではない。不安を感じていても余裕がない親は、後ろめたい思いで子どもに水道水を飲ませ続けているだろう、と、ふと思った。原発事故は、子どもに安全を与えられないという無用な罪悪感や悲しみを親に与えてしまった。このことへの感受性を東京電力や原子力行政の大人たちは持ち合わせているのだろうか。教育現場の大人たちはどうなのだろう。 (平井康嗣)
編集長後記
連休前に宮城県石巻市の中心部や牡鹿半島に行ってきた。ちょっとした縁のある半島の集落には日本酒や糯米など春祭りの足しになるものを渡してきた。ある小学校の避難所に話を聞きに行くと、避難者はピーク時から半減していた。身よりのないお年寄りばかりが残っていたのだ。お年寄りは生活してきた土地や既存の人間関係を大切に思い、移動を好まないということもあるだろう。避難所にいる「ボランティア」(誰かがやらなければ避難所が機能しないので手伝ってきた被災者)には、家も仕事も奪われた地元の若者たちがいた。避難所で自由に身体を動かせるのは若者になる。だが当然、疲労も溜まっている。震災後二カ月が経ち、そろそろ仕事を見つけて生活をしていかなければならない。そこに県外からのボランティアが大量に来れば、これを機に避難所を出ようと思う。非常時の緊張も弛緩する。だが連休が終わり家も本業もあるボランティアは被災地を去る。慢性的な被災者支援を肝に銘じなければならないだろう。 (平井康嗣)
編集長後記
今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故を見ていて、炭鉱が閉山していった歴史が脳裏に浮かんだ。
国内で最後まで営業生産していた炭鉱は北海道釧路市の太平洋炭砿。その前は長崎県池島町の池島炭鉱だ。私は炭鉱の閉山を見届けたくてたまらず、長崎に行って池島を連日うろつき、炭鉱労働者たちに話を聞き、写真を撮った。
なぜ炭鉱が止まったか。表向きは、炭鉱事故で死者が出過ぎたからだ。死者が出るような危険な職場を現代日本は放置しておくことはできない――。だが、ここには国家と財界の冷徹な論理が存在していたはずだ。石炭は火力発電に使用される。石炭を止めれば電力は激減する。だから炭鉱閉山の前提として、海外からの石炭入手の確保と、代替エネルギーの安定供給が必須だ。そうして炭鉱事故のリスクは発展途上国に押しつけられ(今もそうだ)、原子力のリスクは正面から引き受けた。
これを考えれば、原子力の代替が火力でもないことは当然だ。電力も腹八分目でいいじゃないか。 (平井康嗣)