震災から三カ月を受けた六月一一日――。

編集長後記

 震災から三カ月を受けた六月一一日――。ともかく原発をやめろと訴えるデモや企画が開催された。世界中で一〇〇万人の参加を目指し、日本国内では一〇万人が参加したという。私は、二万人規模の新宿デモを取材し参加した。この前日、『週刊金曜日』とたんぽぽ舎共催の福島に住む母親を呼んだ講演会を開催しニコニコ動画が生中継したが三万人近く視聴された。いまだに原発への怒りはおさまっていない。

 一方、これと裏返しに、原発推進の動きや反原発の揚げ足取りも強まっている。こちらは、少数の政財界人や識者たちで、執拗に自分らこそが“正しい情報”だと言い続けている。だが、このようなことに惑わされてはいけない。正しい情報を追い求め続けるあなたには、実は決断する機会は死ぬまで訪れない。科学は未完成だし、真理はどこにあるのかわからないし、わたしたちの情報は常に不十分なのである。自分の直感を信じて、決断するしかない。

 さて、一〇〇万人デモの気合いに吹き飛ばされない誌面をつくらねば。 (平井康嗣)

今週号のタイトルは迷った。

編集長後記

 今週号のタイトルは迷った。「放射能と食卓」もしくは「放射能と食品」と考えていたのだが、いざ、もとき理川さんのイラストがあがってきたら、牛や豚や鶏の鼻っ面に「食品」という文字を置くことがいやになった。なんだか人間中心主義丸出しだからである。

 私はきまぐれにベジタリアンをやったことはあるし、マクドナルドや牛肉を個人的にボイコットしていたこともあるが、いまではあらゆる肉を美味しく食べている。定期的にホルモンを食べたくなって、足立のもつ鍋屋や、立石のもつ焼き屋の暖簾をくぐる。ただ鯨食論争に至らなくても、動物を食べることについての議論になると死刑制度についての議論と同じくらい場が暴力性を帯びて熱することがある。殺して当然だ、食べて当然だと言い切る相手を見て不快さを感じたことはたびたびある。

 私が生きるためにいろいろな命を奪っていることは、しょうがないと思っている。生きたいから。しかし人間中心の欲望を開き直り続けていてはだめだ。原発も開き直っていたらなくならない。(平井康嗣)

東京電力の記事で、佐高さんが木川田一隆について書いている。

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 今週号の東京電力の記事で、佐高さんが木川田一隆について書いている。木川田は、日中国交回復以前に中国に渡っている。資本主義の権化である財界トップが、共産主義の国にすんなりと入れるものではない。特別のパイプがあったのだろうが、型破りだ。

 こういうときでもないと言及する機会もないので触れるが、木川田が暮らした千葉県市川市は私の生まれ育った町だ。永井荷風が住み、村上春樹の『1Q84』の主人公の出身地でもある。実は木川田の孫は小学校の同級生で一年生のときにいきなり誕生日会に呼ばれて家に行ったことがある。家は大きくて、じいさんが東電のエライ人だとは聞いていたが、その数年前に原発を福島県で営業させていた人物だとは最近まで知らなかった。性格が違うので彼とは親友にはならなかったが、振り返ると小学校から高校まで同じだった人間は彼ともう一人だけだ。親近感を覚えていただけに今の東電の腐れ体質には違和感を覚える。会社にも寿命があるということなのだろう。 (平井康嗣)

編集長後記

 ヤフー、アイフォンと米国ビジネスを買い取り巨大化してきたソフトバンクの孫正義社長が東日本ソーラーベルト構想をぶちあげている。ビル・ゲイツが東芝との次世代原子炉開発はじめエネルギー事業に乗り出そうとしていることを考えれば、孫社長が関心を持っていても不思議ではない。

 一方、脱原発への批判も始まっている。マスコミでいえば読売や産経。自然エネルギーは二〇年前からある古い議論で成功していない、やはり原子力エネルギーは先進国には必要だという”古くさい”論理だ。このような状況では、孫の“ベンチャー”精神を応援したいと思うが、孫かあー、と溜息も隠せない。

 二〇〇九年六月一二日号のソフトバンク特集でホリエモンこと堀江貴文氏に話を聞いたことがある。「孫さんは超巨大になる会社を大金で買うスタイル」「貪欲」と指摘していたが、つくづくその通りだと思う。高い買い物をする、莫大な借金をして「大きすぎて潰せない」を狙う、株式会社だから実は本人はノーリスク……。眉に唾つけて見守ろう。(平井康嗣)

編集長後記

『週刊金曜日』を含むメディアに対してだけでなく、教育や教科書へも読み解く力(リテラシー)が必要である。その際、何を教えられているかに目をこらすことは当然である。一方で何が教えられていないのか、を見ようとすることも大切だろう。いずれにしても子ども自身には難しく、大人の責任は重い。

 さて、私もそうだが、友人の家族は子どもへの放射能汚染を気にしている。最近、水道水の汚染は「基準値」以下になっているが、飲ませないほうが安心だ。彼の家族は、これまでお目にかかったことのない韓国製のペットボトル水を買い込んでいた。安いと言うがタダではない。不安を感じていても余裕がない親は、後ろめたい思いで子どもに水道水を飲ませ続けているだろう、と、ふと思った。原発事故は、子どもに安全を与えられないという無用な罪悪感や悲しみを親に与えてしまった。このことへの感受性を東京電力や原子力行政の大人たちは持ち合わせているのだろうか。教育現場の大人たちはどうなのだろう。 (平井康嗣)

宮城県石巻市の中心部や牡鹿半島に行ってきた。

編集長後記

 連休前に宮城県石巻市の中心部や牡鹿半島に行ってきた。ちょっとした縁のある半島の集落には日本酒や糯米など春祭りの足しになるものを渡してきた。ある小学校の避難所に話を聞きに行くと、避難者はピーク時から半減していた。身よりのないお年寄りばかりが残っていたのだ。お年寄りは生活してきた土地や既存の人間関係を大切に思い、移動を好まないということもあるだろう。避難所にいる「ボランティア」(誰かがやらなければ避難所が機能しないので手伝ってきた被災者)には、家も仕事も奪われた地元の若者たちがいた。避難所で自由に身体を動かせるのは若者になる。だが当然、疲労も溜まっている。震災後二カ月が経ち、そろそろ仕事を見つけて生活をしていかなければならない。そこに県外からのボランティアが大量に来れば、これを機に避難所を出ようと思う。非常時の緊張も弛緩する。だが連休が終わり家も本業もあるボランティアは被災地を去る。慢性的な被災者支援を肝に銘じなければならないだろう。 (平井康嗣)

編集長後記

 今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故を見ていて、炭鉱が閉山していった歴史が脳裏に浮かんだ。

 国内で最後まで営業生産していた炭鉱は北海道釧路市の太平洋炭砿。その前は長崎県池島町の池島炭鉱だ。私は炭鉱の閉山を見届けたくてたまらず、長崎に行って池島を連日うろつき、炭鉱労働者たちに話を聞き、写真を撮った。

 なぜ炭鉱が止まったか。表向きは、炭鉱事故で死者が出過ぎたからだ。死者が出るような危険な職場を現代日本は放置しておくことはできない――。だが、ここには国家と財界の冷徹な論理が存在していたはずだ。石炭は火力発電に使用される。石炭を止めれば電力は激減する。だから炭鉱閉山の前提として、海外からの石炭入手の確保と、代替エネルギーの安定供給が必須だ。そうして炭鉱事故のリスクは発展途上国に押しつけられ(今もそうだ)、原子力のリスクは正面から引き受けた。

 これを考えれば、原子力の代替が火力でもないことは当然だ。電力も腹八分目でいいじゃないか。 (平井康嗣)

編集長後記

 日曜日の午後、ようやく第五福竜丸展示館を訪れることができた。東京には夢の島公園という場所があり、今熱帯植物館やヨットが駐留するマリーナなどがある。ここは巨大なゴミ捨て場だった。つけられた名前が夢の島だというのだから、日本人は表現の自由を多いに満喫している。公園はずれの森には隠れるように黒い建物がたたずんでいる。中には一九五四年三月一日に、太平洋のビキニ環礁で米国の水爆ブラボーの実験によって、放射能汚染された珊瑚の粉=死の灰を浴びた木造マグロ漁船第五福竜丸が展示されている。マグロを供養する石塚も、展示館の脇に設置されている。マグロから放射能が次々に検出されて四五七トンが廃棄、築地市場の地中にも埋められたことの慰霊だ。この年にはスクリーンに水爆怪獣ゴジラが生まれ、衆議院では原発の研究予算が初めて通過、原子力の獣道を日本は歩み始めた。映画『わが友原子力』を制作したウォルト・ディズニーの遊園地からも電車で七分。連休にでも立ち寄られてはいかが。 (平井康嗣)

ほとんどのメディアが企業広告に支えられている。

編集長後記

 ほとんどのメディアが企業広告に支えられている。広告も情報などと言う輩もいるが、言論にとって広告費は、時にウランやプルトニウムである。一見「効率的」「安定的」だが、言論を侵蝕する猛毒だ。『週刊金曜日』を原子力によって動かすつもりはない。今週号では電力会社のPRマネーを食ってきた人、原子力を推進してきた人を批判した。ただ異論を承知で言うならば原発の危険性を認識して原子力推進を公言してきた一部の輩の理屈は通っている。在日米軍や死刑制度への賛成論と同様、到底受け容れられないが、理屈の先に横たわる価値観こそ問題視したい。一方で原発は安全・クリーンと発言したり、リスクから目をそらしたり、それ以前にリスクに気づかないで、原発神話に加担してきた連中は情報発信者として構造的に重大な欠陥を抱えている。あなたの感性や、放射線のように可視化困難な言説は今後も社会に深刻なリスクを拡散させていくだろう。無責任な言論活動をした輩は早く運転を停止していただきたい。危なすぎる。(平井康嗣)

自分はどうでもいいけれど、子どもだけはなんとか守りたい。

編集長後記

 自分はどうでもいいけれど、子どもだけはなんとか守りたい。ほとんどの親や大人は直感的にそう願うだろうと、私は思っています。子どもは自分では食べ物を買えないし、選ぶこともできません。親が大丈夫だと言えば食べます。

 友人にジャンクフード好きな男がおりました。子どもが生まれるやいなや、大丈夫な野菜とかってどうやって手に入れるのか、と聞いてきました。市場で流通している食品の多くに食品添加物や着色料、保存料が含まれています。もちろん一生摂取しても安全であるという量しか使われていないはずです。私も食べています。それでも親になると、子どものためにできるだけ添加物入りの食品を避けます。
 
 それを見越してか、貧しい家庭では買えないような割高な飲食品が赤ちゃん市場では肥大し続けています。識者が基準値以下と言おうが、このような現代日本では、放射性物質が検出された食物を安心だと与える親は希でしょう。大人にとっての風評被害とは違う話なのです。原発事故の罪は重い。     (平井康嗣)