土曜日は、創立五五年という朝鮮大学校をのぞいてきた。
玉川上水の遊歩道を歩きながら、学校へ向かう道は気持ちがよい。
ピョンヤン科学技術大学名誉総長の話によれば、米国内ノーベル賞受賞者なども訪朝し、米朝は科学外交を進めている。
この話は講演参加者にも好意的に受け止められていた。
もちろん米国は朝鮮の資源を狙っている中国に危機感を持っているから、このような外交チャンネルを残しているのだろう。
一方の日本はといえば、そんな米国の顔色をうかがいながら、敵視外交で関係を断絶している。
そして国内では人種差別主義者がさらなる排除を加速させることにもなっている。
当日は大学成立に至る歴史も紹介されていた。
日本人は従軍をさせたり、炭鉱で安い労働力として利用しつつも朝鮮の人びとを日本社会に受け容れてきた。
その結果、朝鮮大学校の建物があそこにある。
それがともに生きる知恵であり、目指された日本社会の姿である。
この歴史や文化を軽々に足蹴にすることはできないはずだ。
(平井康嗣)
「どんな壊れた時計でも一日に二回は正しい時刻を指す」
ニヒリストとも言われた作家マーク・トゥェインの有名な格言である。
三月一一日から八カ月あまりの時が過ぎようとしている。
時が経てば、三月一一日当初に湧き出た想いや決断や記憶も揺らぎ、薄らいでいくだろう。
忘却曲線はおもいのほか急である。
そんな今、壊れていないと信じていた日本社会という時計の針が、ふたたび正しい時刻を指し示す。
あなただけにとって。ようやく。
そのときに、あなたは時計は壊れていなかったと信じ、もとの日本社会に戻ろうとするかもしれない。
その時にいまいちど立ち止まって思い出してほしい。時計は壊れていたのでは、と。
今週号は震災後の日本に向き合いながら、希望を持って生きているという人たちを特集した。
大事故を起こした原発、その背景にある日本社会をできるだけ見ないようにしながら希望や夢を語る人もいる。
彼女ら彼らはそうではなくて、自覚的に何かを見ようと、今、もがきながら生きている人たちである。
(平井康嗣)
「ウォール街を占拠せよ」と最初に呼びかけたのはカレ・ラースン。
彼が一九八九年に創業したのが、”ADBUSTERS”(アドバスターズ)という隔月刊雑誌。
一般メディアでは「カウンターカルチャー雑誌」などと紹介されているが、『産経新聞』は「反企業活動団体」と嫌みな形容をしていた。
さすが法人税増税反対、TPP賛成、原発推進の「親企業新聞」。
さて同誌は反原発運動を始めたグリーンピースと同じくカナダが発祥。
この雑誌を最初に知ったのは今から一〇年ほど前。
フェアトレードショップのピープル・ツリー自由が丘店をぶらぶらしているときに、店内書棚で発見した。”広告的” 装丁もよいし問題意識も鋭かった。同誌は「何も買わない日」「テレビをつけない週」などのキャンペーンも展開してきた。
西洋は新自由主義=企業中心主義の輸出国である一方で、企業批判も盛んだ。
人権問題にしても同じ構造。一方、日本はなにかと鈍い。
TPPなどではなく、こういう市民からのキャンペーンは世界にもっと広がるといい。
(平井康嗣)
野田政権は一一月のAPEC前にTPP参加を決めようとしている。今年三月まで菅政権の最大の課題がTPPだった。『週刊金曜日』三月四日号の特集も「TPPは日本を壊す」である。
私も政府がアリバイづくりのために開国フォーラムを開催した二月二六日には、夕方には慎重派の山梨決起集会も取材し、リングに上がる前のウォーミングアップを入念にしていたことを思い出す。それが大震災と東電フクイチ事故で吹き飛び、本誌は原発と放射能汚染の報道に邁進してきたのである。本来はTPP参加交渉に参加するための意思表明の最終期限は六月だった。そのために開国フォーラムを開いたはずだ。
しかし今の政府の予定をみると、もはや国民的議論は無用らしい。市民参加政治はまた一歩後退か。さらに「TPPおばけ」だと推進派は、TPPは例外なき規制の撤廃ではなく、交渉も譲歩できると反論をし始めた。これではますますあぶない。米国に有利な規制緩和へと進むだろうから。やはり賛成する理由が見あたらない。
(平井康嗣)
編集長後記
福島県内では低線量被曝が続いている。被曝について、科学的には不明な点もあるが、線量が上がればがんにかかる確率はあがるのだから、このような場所にいることは避けたほうがよい。政府や東京電力は一〇〇%安全だと証明でき、除染が終わるまで避難をさせておくべきだ。
自主避難についてはNGOも支援を続けているが、原発に批判的な報道は減っている。いよいよ原発必要論などが大手を振り始めた。原子力産業はウラン採鉱から運転まで被曝と差別がなければ成り立たない。それを続けるのか。しかし、情報の川上にいるメディア関係者は机上の議論に戻ってしまっている。
なぜだろう。大きな問題として多くの論者が福島県の現地に入った体験がないからではないか。想像力のたくましい人は情報を追体験することで理解し共感できるだろう。しかし現地の空気を吸わず、現地の声を聞かない、知識だけにもとづく言葉はぶれる。放射線は見えるものではないが、報道関係者には福島の土を踏んでほしいとも思ったりする。 (平井康嗣)
野田首相に誉めるところが見つからなかったのか、よほど菅前首相が嫌いだったのか、当初、メディアは彼を演説上手だとおだてた。
私にはただの駄洒落にしか思えなかったが。案の定、首相は駄洒落のネタがつきたのか、記者のぶら下がりからも逃げ回り、支持率も下がり始めている。
以前、全国の自民党若手政治家向けの講演を担当していたベテランの党職員に演説の良し悪しを聞いたことがある。時代を遡るのはご容赦願いたいが、立て板に水の “上手な” 演説をしたのは、三木派だったそうだ。
代表格が鯨岡兵輔。しかし、街頭で人をひきつけたのは田中角栄や浜田幸一のような政治家だったという。話はあちこちに飛ぶし、声もよくない。しかしたたき上げの体験をまぜ、実に面白かったという。むしろ脈絡がないからこそ話が面白いと考え至ったそうだ。慧眼か。その話のせいか、代表選ではどの候補者の演説も優等生に見えた。政治家を支えるべき原体験が貧弱になったからなのか。
松下政経塾ではリアルな経験は積めないだろう。
(平井康嗣)
編集長後記
一〇月一日から東京都で暴力団排除条例が施行される。これで暴力団排除運動は一つの節目を迎える。犯罪集団の摘発は重要だが、政治的不安定が続くのに警察国家化だけは着々と進むことに不快感を覚える。警察がここまで前に出てくるのかといえば、民主主義による統治の力や共同体の力が弱まっているからだろう。警察自身が共同体に解決能力がないと思わせるように恐怖心を煽っていることもある。政治の不安定や不信が続くことは安定や強さを求めがちになるから警察にとっては都合がよい傾向だ。
暴排条例の問題は、個人まで規制対象にしていることだ。これはすべての人が警察を常に意識し協力する相互不信の社会へと誘導する。つまり “社会の警察化” を促進するものである。一九九八年に暴力団排除宣言をした東京都のパチンコ業界は今どうなっているか。警視庁OBを受けいれ、常に警察の協力を得ようとする組織構造がつくられている。暮らしに密接な権力者・警察の伸長こそ、もっと監視しなければならない。 (平井康嗣)
編集長後記
九月一九日の六万人反原発デモ前の9・11一万人デモでは一二人が逮捕された。七人が釈放されたというが、平和的なデモ&パレードに警察が目くじらを立てて大量の逮捕者を出す行為はこの国の恥だ。警察(そして検察も)はそんなことに労力を割くなら、東京電力を捜査してほしい。
作業員の死亡事故、証拠隠滅等探せばいくらでもネタはあるだろう。まったく閉塞感を覚えることばかりだ。フーコーは社会の内部規律を一望監視施設と称し息苦しさの原因と指摘した(と私は解釈している)。
日本でも権力の線引きにより息苦しさが増し、私たちの去勢は加速している。芸人から路上を奪って首輪をつけ、灰色な境界を認めず社会風俗を破壊し、共通番号制を導入して納税者としての国民だけを許す。
市町村合併を繰り返し、血も通わない名称と行政区画で集落を線引きし直す。最近は強制避難民と自主避難民の分断を強いる。日本国民は気づかない「肩書き」を大量にはりつけられ、生かされている。天皇だけが永遠不変のごとくである。
(平井康嗣)
編集長後記
今週号には、徐裕行氏のインタビューを掲載している。彼はかつての村井秀夫・オウム真理教(当時)幹部を東京・青山の総本部前で刺殺した人物だ。この刺殺事件は動機と背景をめぐってさまざまな憶測を呼んだ。そもそもオウムには謎が多い。村井氏の死により結果としてオウム関連事件の被害者遺族が望んでいる教団の真相解明にブラックボックスができてしまった。その徐氏は意外にも出所して以来、メディアに口を開くのは初めてだった。本人はどう思われようが構わないという様子。だが投げやりではなく紳士的であり、言葉も丁寧に選んで喋る。ただ刺殺に対する悔恨のそぶりもない。そのことに驚いた。テロリスト――という言葉が頭に浮かぶ。当時のオウムに対する世間の怒りや憎しみ。それを背中に受けた義憤だけで牛刀を握れるのか。彼が墓場まで持っていこうとしているものは間違いなく存在する。だがそれは墓場まで行くだろう。徐氏はロバート・B・パーカーの探偵スペンサーシリーズがもっとも好きな本だという。(平井康嗣)
編集長後記
震災・原発・放射能の特集を続け、気づけば半年。脱原発を可視化した菅首相の退任もあり、この問題に誌面を大きく割く週刊誌も弊誌をのぞけば『AERA』と『週刊現代』くらいになったようだ。売れない主題を商業誌は扱わない。扱うメディアが少なくなれば原発推進を言い出すメディアも増えてくる。まるでシーソーだ。メディアが騒がなければ世間も騒がない。螺旋を描き問題意識は縮小していく。では報じる価値がなくなったのかと言えばそれは違う。調査報道への気概があれば、原発・放射能問題で伝えるべきことはまだ尽きない。
今週号の特集は「原発と差別」。もっとも扱いたかった主題の一つだ。脱原発の是非を争うと、原発をなくすと電力が足りなくなるという争点に収れんされることが多い。しかし、ウラン鉱山や通常運転における被曝を誰かに押しつけて原発はようやく存在できる。このことこそが本当の争点だろう。私たちは見たくないものを遠くへ押しつけ、都合のよい世界に帰ってはいけないはずだ。 (平井康嗣)