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 野田首相に誉めるところが見つからなかったのか、よほど菅前首相が嫌いだったのか、当初、メディアは彼を演説上手だとおだてた。

私にはただの駄洒落にしか思えなかったが。案の定、首相は駄洒落のネタがつきたのか、記者のぶら下がりからも逃げ回り、支持率も下がり始めている。

 以前、全国の自民党若手政治家向けの講演を担当していたベテランの党職員に演説の良し悪しを聞いたことがある。時代を遡るのはご容赦願いたいが、立て板に水の “上手な” 演説をしたのは、三木派だったそうだ。
代表格が鯨岡兵輔。しかし、街頭で人をひきつけたのは田中角栄や浜田幸一のような政治家だったという。話はあちこちに飛ぶし、声もよくない。しかしたたき上げの体験をまぜ、実に面白かったという。むしろ脈絡がないからこそ話が面白いと考え至ったそうだ。慧眼か。その話のせいか、代表選ではどの候補者の演説も優等生に見えた。政治家を支えるべき原体験が貧弱になったからなのか。

松下政経塾ではリアルな経験は積めないだろう。

(平井康嗣)

「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。

 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。

 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。

 リクルート事件もまた再検証が迫られている。江副浩正氏の近著『江副浩正の真実』(中央公論新社)は衝撃的な本だ。地検特捜部が、どのように自分たちに都合のいい調書を作成していくのか、その実態は佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)があますことなく描いた。しかし、江副氏の体験談はさらに詳細である。それも驚きだったが、何より私が愕然としたのは、「リクルート事件は新聞がつくり、地検は事件として立件せざるをえなかった」という告発である。

 この事件をめぐる報道は、新聞社の社会部記者には代々、受け継がれる、調査報道中の調査報道。『朝日新聞』記者のジャーナリスト魂が、竹下登内閣を崩壊させ政治改革に結びつけたとして、高い評価を受けた「真の特ダネ」なのだ。だが、江副氏の記述が事実なら、本来なら事件にならないことを事件にしてしまった一番の責任はメディアにある。「正義の味方」という錦の御旗を背負っている地検は、報道にあおられ、事件をつくらざるをえなかったという構図だ。

 ロッキード事件以降、「角栄・金丸・小沢」対特捜部の戦いは、ある種の正義と正義のぶつかりあいだ。ではどちらが「不正義」なのか、最後の判定を下すのは、マスコミではなく主権者たる私たち市民・国民である。(北村肇)