編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

06年のいま、「12・8」の意味を忘れないようにしなくては

「ゆっくり」「のんびり」「ゆったり」。いずれも4文字で、最後が「り」で終わっている。言語学的考察をしたいわけではなく、特に深い意味もない。たまさか1ヶ月のうちに、新潟、秋田に行く機会があり、新幹線の車窓から、開けた平野や頂を白くした山並みを、それこそ「ぼんやり」と眺めているときに、ふと思いついただけである。

 北欧では、歩き煙草の人をほとんど見かけないという。私も一度だけ行ったことがあるが、確かにそうだった。北海道の知人からも同じことを聞かされた。「北海道は広いし、みんなあくせくしていないから」が解説だった。こちらは10年ほど前のことで、いまは少し様相が違う気もする。

「いつも何かに追われている」人に限って、どこでもかしこでも紫煙をくゆらす。怒りや焦り不満などが、時も場所も選ばずの喫煙をもたらす――愛煙家には申し訳ないが、あながち的外れではないはずだ。

 歩き煙草とともに、最近は、眉間にしわを寄せ歩く人が目立つ。年齢に関係ない。子どもも中高年も、お年寄りも。

「体感治安」がはやりだが、「体感不安」もあるのだろう。「みんなに排除されている」「誰にも守ってもらえない」といった感覚だろうか。

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という標語があった。交通安全キャンペーンに使われたものと思うが、「日本も経済復興を果たしたことだし、そろそろ、のんびりしてはどうだろうか」という雰囲気が、社会を覆っていた。「モーレツからビューティフル」も人口に膾炙した。

 ところが、それほどの時間も立たないうちに、再び、ぎすぎすした風が吹き始めている。この疎外感の中で、毎年3万人もの大人が自殺し、多くの子どもたちが心の行き場を失い、もがいている。

 政治権力は、こうした不安を利用することに長けている。「あなたには日本という『国家』があるではないですか」。この甘言が日本を戦争へと引きずり込んだ歴史的事実、そして「12・8」を、安倍「軍事政権」が動き始めた06年のいま、この国に住む私たちは、忘れてはならない。(北村肇)