週刊金曜日 編集後記

1311号

▼正月三が日は自宅から一歩もでなかった。元来が出不精で通勤と買い物以外は、ほとんど家の中で過ごすインドア派。実家との折り合いがあまり良くないからか4年ほど帰省はしていない。初詣に行ったのもいつ以来だろうか。唯一のルーティンであった沿道からの"駅伝追っかけ観戦"も出身校が優勝したことで逆に熱が冷め、昨年からテレビを前に一杯やりながらの一喜一憂に変更した。この正月も例年通りだと思った。
 ただ4日早朝、溜まった新聞をポストまで取りに行き、届いた年賀状に目を走らせるとその思いは消えた。不況や会社合理化で職を失ったり、病に伏していたりするとの報告がやたら目につく。コロナに感染している旧友もいる。そういえば齢80半ばの恩師の便りは途絶えたままだ。休暇中に忘れていたぼんやりとした不安が頭をもたげてきた。どうにも希望が見いだせず、生きづらい世の中は更に加速している気がする。ただそれでも生きていかねばならない。それだけでも良い。(町田明穂)

▼空前の大ヒットとされる『鬼滅の刃』。作品自体の評価は、本誌でも特集でとりあげているからお任せするが、個人的に思い出したのは、歌人の馬場あき子の名著『鬼の研究』(ちくま文庫)だ。
 国文学や能楽に登場する「鬼」を論じた本書で著者は、「反体制」「反秩序」こそ、鬼の基本的な特質とする。また、鬼の形相の般若面による能作品(「黒塚」「葵上」など)には、虐げられた女性の怒りや悲しみが凝縮されているとも述べる。その上で、近世以降の過酷な体制の中で「鬼」は滅び、節分の豆まきや、祭りの行事の中にかろうじて生き延びていると嘆息しながらも、「現代に〈鬼〉は作用しうるか」と問いかけた。
 ならば「『鬼滅の刃』現象」は、単なる勧善懲悪「鬼退治」譚への人気ではなく、「鬼」にならざるを得ないほどに行き場のない、現代の憤怒や悲しみを象徴しているのかもしれないと想像する。
 節分も近い。今年は「鬼は外」ではなく、「鬼」を招き入れるか。そんな天邪鬼(これも鬼だ)な気分もわいてくる。(山村清二)

▼安田菜津紀さんにインタビューしたいと思ったきっかけは、「父が在日コリアンだったことをある日突然知った」という彼女のエッセイを読んだからだ。私は在日コリアンとして生まれ、そのことを幼い頃から自覚していた。しかし、安田さんが父の本当の国籍を知ったのは、彼女の記憶によれば高校生の時だ。どんな気持ちだったのかを聞きたかった。その答えを含めた思いは本誌18~23頁のインタビューに詳しい。
 安田さんはこんなことも言っていた。――第2次世界大戦後、朝鮮戦争が起き、多くの在日コリアンが故国に帰れなくなった。もし、あの戦争が起きていなかったら、祖父母は故郷に帰り、父は日本人の母と出会うこともなく、自分も生まれなかった――。だけど彼女は言う。「戦争が起きずに私が生まれなかったという道と、戦争が起きて私が生まれたという道、どちらを選んでもいいと言われたら、間違いなく戦争が起きなかった方が絶対にいい」。ルーツを探る安田さんの「旅」は始まったばかりだ。(文聖姫)

▼28頁の記事を読まれた方は、FUNIってどんなラッパーなの?と思ったでしょう。紙媒体なのでラップそのものはお伝えできませんが、彼が昨年作った『yonayona』という作品のリリック(歌詞)の一部を紹介します。
〈これは隔離されたディープコミュニティのストーリー 一人ひとりが自分なんて確立できずに 傷を見せあってディスりあってできたストーリー 一人ひとりが自分なんて確立できずに 確率よりも逆説を信じて生きるんだ ひずんだ社会の隙間 持たざるものの文化 愛に満ちた排気ガスを一緒に吸い込んだ それがお前と俺を生んだ〉
 川崎市南部で生まれ育ち、世界を放浪したのちに再び川崎に戻ってきたFUNI。ラッパーとしては優しすぎるかも? という彼の声にぜひ触れてください。そして坂上香監督と彼は、『プリズン・サークル』視聴済で子育て経験のある30~80代を対象とした「ラップワークショップ」第2弾を川崎で実施予定です。(植松青児)