週刊金曜日 編集後記

1299号

▼8月の日本の自殺者数が1849人、前年同月比で246人増加したという発表が少し前にあった。とくに女性と若年層が増えているという。6月までは減少していたので、コロナによる自粛や休校で、学校や職場でのストレスが減っているのかと思っていたのに。
 一方、芸能人の自殺も続いている。あんなに活躍していたのになぜと思うのと同時に自殺の手段や場所まで報道されているのを見て疑問を感じていたら、WHO(世界保健機関)がメディア関係者に向けた自殺対策推進のための手引きを作成しているのだという。
 報道する際に「やってはいけないこと」の中には「自殺に用いた手段について明確に表現しないこと。センセーショナルな見出しを使わないこと」などもあった。あらためて検証すべきことだが、記憶している報道だけで考えても、守られていないことは明白だ。
 なぜ自殺者が増えるのか? 実感として思うのは、顔を合わせてのコミュニケーションの欠如。オンラインのやりとりだけでは得られない、実体ある「密」の関係こそが人との信頼関係を育み、生きるエネルギーとなる。そんなあたりまえのことを忘れていないか。(吉田亮子)

▼日本学術会議が推薦した新たな会員候補のうち、6人を菅義偉首相が任命しなかったことは、学問の自由に対する重大な侵害です。滝川事件と類似しています。
 1933年の滝川事件では、中央大学での講演やその著『刑法読本』の内容が危険思想であるとされた京都帝国大学教授で刑法学者の滝川幸辰をめぐり、鳩山一郎文部大臣(当時)が京大総長に対し滝川に辞職勧告を行なうよう命じました。そして文部省は一方的に滝川を休職処分に付したのです。
 これに対し京大法学部の全教官は即日、大学の自治を侵害するものとして抗議のため辞表を提出。学生らも抗議運動を起こしましたが、政府の教授会分断工作や弾圧により、抗議運動は敗北しました。
 一度発令した人事を撤回させることは困難です。理由について政府を問い詰め、政権の不当性を世論に訴えることが重要です。
 政府に尻尾を振るメディアはおそらく、6人の過去の言論を洗い出し、「反日」などのレッテル張りにいそしむでしょう。事件を矮小化させてはなりません。自由闊達な議論や研究は民主主義の基礎であり、社会の健全性を保つために不可欠です。(伊田浩之)

▼「日本学術会議会員」という肩書は、私にとってある意味、「東大教授」と同じくらい権威主義的でうさん臭い。近年では、学術会議や主流メディアがその学説の宣伝に一役買ってきた早野龍五・東大名誉教授が、福島原発の被曝線量を過小評価する論文を、同意も得ていない住民のデータを恣意的に流用して作成していたことを知り、ますますそう思った。
 学問への権力介入には抗議すべきだが、今回学術会議会員に任命されなかった6人を含め、真の学究で学術会議会員の肩書がほしいなどと思う人はいるまい。学問の徒にとって専門家や同僚から業績を認められ、加入を推薦されたあと、菅内閣ごとき非科学的、非学問的政権から任命を拒まれたとしても、それは研究者の名誉であり、学者冥利につきる"勲章"ではないか。
 1930年代の「滝川事件」では、京都帝大の滝川幸辰教授の講演が「無政府主義的だ」などと非難され、滝川教授が時の権力から追放されたとき、法学部の同僚教官全員が辞表を提出して抗議し、気骨を示した。「菅首相お墨付き会議」など、現会員全員辞任でボイコットする手もあるのだが。(本田雅和)

▼自民党・杉田水脈衆議院議員の「女性はいくらでもうそをつけますから」発言が多くの批判にさらされる一方で、杉田氏を守ろうとする動きもネットを中心に起きている。自民党・世耕弘成参院幹事長も「言語道断だ」としつつも、「今回が最後だ。彼女は何回も繰り返している。次あった場合は、参院として厳しく物申していかなければいけない」と語ったと報道されている。この世耕氏の発言も、杉田氏を擁護している。「今回が最後」といって許されるような臨界点はとうに超えている。そもそも2017年の衆院選で自民党が杉田氏を公認候補と認めたときから、すでに杉田氏のそれまでの差別的・排外的な言動を懸念する声があがっていたが、党は比例のみで杉田氏を立候補させて当選に導いた。党自体が、杉田氏のこれまでの問題発言にお墨付きを与えているような構造であり、それに対する党内の自浄作用はほぼ機能していないようにみえる。
 杉田氏の議員辞職などを求めるオンライン署名は、10日ほどで13万筆以上集まっている。「今回が最後」といういい加減な幕引きに対し、このまま終わらせないという強い怒りの表明だ。この声を黙殺してほしくない。(渡部睦美)