週刊金曜日 編集後記

1270号

▼「それでもそれでもそれでも」の齋藤陽道さんとのやりとりは7割がメール。残りの3割は、手紙とファクス。打ち合わせは筆談になる。
 送られてくる色見本紙が入った大型封筒の裏には、いつも可笑しなイラストレーションが描かれていて、最新版を自分の机の横に張って密かに楽しんでいる。
 陽道さんは音が聞こえないので、彼の写真にはその周りの気配や動きに敏感に反応しているものがある。そして明るさというか、光を見事に捉えているものも多い。この号の表2「腕のなかに青空を」でもそうだ、ふたりの笑顔をやさしい光が包んでいる。
 2月22日から東京・渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で公開されている映画『うたのはじまり』(河合宏樹監督、86分)は、その齋藤さんの家族を追ったドキュメンタリーだ。
 陽道さんは生まれた息子に子守歌を聴かせるため、好きではなかった歌(音)に歩み寄る。「音楽はただの振動だった」ものから徐々に息子との「対話」になっていく様子が画かれる。名古屋「名演小劇場」、大阪「シネ・ヌーヴォ」、京都「みなみ会館」ほかで順次公開予定です。(土井伸一郎)

▼読者のみなさんはフィットネスクラブというものをご存じか。「知ってるに決まってんだろ、ナメてんのか」とお叱りもいただきそうだが、では入ったことのある人はどれだけいるだろう。
 私は先日、行ってきましたよ。生まれて初めて......。ツレについていき、お試しで体験したのだ。
 ロッカーで着替えてダンスプログラムへ。その中の「ズンバ」をやってみた。ラテンなリズムのヒップホップに合わせ、インストラクターのダンサーの振り付けを見よう見まねして踊るのだ。
 ダンサーはじめ二十数人の参加者は私を除きみな女性。こういうのを「殿一点」というのか? 開始前、不安そうな表情の私を見かねたのかダンサーが「スキップはできますか? なら大丈夫! 自由に踊ればOKですよ!」と声がけしてくれるのも恐縮だ。
 そうして45分、汗をかきかき何とか踊り切った。ツレも私を見て「初めてにしては体が動いてた」。完全アウェーな状況だったが頑張った自分をほめてあげたい。でもこのアウェー感は「殿一点」で「おっさん」だからこそ強く感じられたもの。男性優位社会ニッポンに頭までどっぷり浸っているんだと思い知らされた。(斉藤円華)

▼鈴木邦男さんに初めてお逢いしたのは1995年5月17日でした。松山大学(愛媛県松山市)で「戦後50年。明日をみつめて」と題したシンポジウムがあり、辛淑玉さんとともに登壇されたのです。
「右にもだめな人はいるし、左でも尊敬できる人がいる」という趣旨の話をされていました。
 シンポジウム後に名刺交換すると、住所に「みやま荘」とありました。漠然とした想像ですが、「あぁ、この人はおカネなどの通俗的な価値とは無縁な、信用できる人なんだな」と感じました。
 その鈴木邦男さんが、反省とともに半生を振り返る新連載「ハンセイの記」が始まります。その国家観や歴史観は、弊誌の主な読者層とは異なるかもしれません。だからこそ、多くの考えるヒントがあるのではないかと思います。
 ドキュメンタリー映画『愛国者に気をつけろ!鈴木邦男』の中村真夕監督は「異なる意見や価値観を持つ人たちに対しての不寛容さが強くなっている今の日本社会で、鈴木のボーダーレスな存在から、(略)何か突破口を示唆できるのではないかと願っている」と記しています。この連載もそうなるよう願っています。(伊田浩之)

▼1945年3月10日の未明、東京を襲ったB―29の無差別爆撃は市街地を焼き尽くし、死者だけでも約10万人を数えた。東京を含めて日本各地の空襲を指揮したカーチス・E・ルメイは1964年、勲一等旭日大綬章を授与された。勲章には興味がないが、聞けば日本人でもなかなかもらえない勲章なのだそうだ。私もその勲記(勲章の証書)のコピーを見たことがある。「大日本国璽」に天皇裕仁の署名、内閣総理大臣佐藤栄作の署名があった。補償もなく放り出された庶民の待遇と比較すると、戦後も国にとって庶民が守るべき存在ですらないのに気付く。
 新型コロナウイルスの流行で中国に補償してほしいとテレビでタレントが発言したらしい。日中戦争では日本軍が各地を無差別爆撃し、人為的に細菌をばらまいたことも忘れさられようとするこの国らしい光景だ。1938年5月、蒋介石も見守るなか、武漢の漢口飛行場から鹿地亘たちが作成の反戦ビラ数百万枚を積んだB―10爆撃機2機が日本を目指して飛び立ち、九州で「紙の爆弾」を撒いて帰還した。1人の死者もない、日本初「空襲」だ。彼らが日本から勲章を授与されたという話は、寡聞にして知らない。(原田成人)