週刊金曜日 編集後記

1244号

▼いま、『週刊金曜日』の仕事以外にもいくつかの仕事を同時に進めている。そのため休みがまったく取れない。仕事は手を抜けない。でもすべて完璧にはこなせない。なにかを犠牲にしなければ。ということで、部屋の掃除を当分放棄することにした。埃では死なないから。かくして、私の部屋は、寝られる場所だけが辛うじて確保された状態で、すでに半年近くが経つ。資料はあちこちに散らばり、本箱からはみ出した本がどんどん床に積み重なっていく。
 しかし、不思議なもので、散らばっているように見える資料も、一定の法則をもって置かれていることが分かる。というか、自分で仕分けして置いているのだ。だから、書き物をするときでも見つけやすい。本もしかり。無意識のうちに同じジャンルの本を積んでいる。「無秩序のなかの秩序」とでも言うべきか。
 それでも少しずつ片付けて、いつかはインテリア雑誌に出てくるような部屋にしたいのだが。そうなったら逆に、資料が見つけられなくなったりして。(文聖姫)

▼26~32ページの「政教分離」に関する記事のきっかけは、本誌編集委員の崔善愛さんが、ご自身が住む地域での神社のお祭りに、"半強制的"に協力を求められることに、疑問を呈されたことだった。
 神社への半強制的な協力など、だれでも不快なものだろうが、プロテスタント教徒である崔さんにとって、それは「信仰の自由」にかかわる決定的な問題なのだ。
 長崎で被爆した私の母はカトリック教徒だった。生前、特に尋ねたことはないが、そう言えば、小さい頃から神社の初詣に連れられたこともなかったと思い出す。
「神社は宗教ではない」とは、二度の神道・神社特集でも触れたように国家神道の"偽装"だが、それが、地元の神社の祭りのような、何気ない姿をとるとき、神道という"宗教"の一変種であることを見逃してはいないか。その危険性に敏感であることこそが、天皇家の代替わり儀式が、国家レベルの行事として催されることの"政教分離違反"を、身近に意識する第一歩であることを教えてくれた崔さんに感謝しています。(山村清二)

▼経営が苦しいので、この1年ほど休日になっても、それが頭から離れません。またこれといった趣味もないので気分転換ができず、思い詰めたまま休日を過ごし、眠れないまま月曜日の朝を迎えたことも二度や三度ではありません。まったく頼りない業務部長です。
 このお盆が明けると入社15年目を迎えます。その当時、ビラを配布したら逮捕され、「君が代」を歌わないだけで処分される世の中に戦争前夜の危機を覚えました。右に寄りすぎた座標軸をせめて真ん中に戻さねばと決意、出版社でキャリアを重ねた自分のできること、それは『週刊金曜日』の部数を伸ばすこと。そう本気で思って「金曜日」の門をたたいた次第です。
「表現の不自由展」開催に対する圧力、韓国に対する敵対的対応等、ここ数日に起こったことを挙げるだけで、この国の更なる劣化ぶりに背筋が凍ります。そしてこんな世の中が続く限り『週刊金曜日』発行を止める訳にはいきません。今後も泣き言は漏らします。ただ読者のみな様とともに歩み続ける覚悟は変わりません。(町田明穂)

▼行きつけの美容院で先日、20代後半の美容師さんが私の髪をいじりながら話しかけてきた。
「吉田さ~ん、今やっている○×△って映画(戦争映画)、どう思います~?」
「知らないけど、なんで?」と聞くと、自分は『はだしのゲン』を読まされた世代で、戦争の悲惨さを「わかっている」から、怖くてもう戦争映画などの類いは見られないし、戦争資料館にも行きたくないということのようだった。
 するとすかさず、40歳前後の美容師さんが、「でも、知らないって恥ずかしい。私はもっと知りたい。戦争資料館にも行きたい」と言うので、「なんで?」と聞くと、小さい自分の子どもにも「きちんと伝えたい」からという。
「選挙は行った?」と聞くと、「もちろん!」。前出の美容師さんは行っていなかった。親になると子どもの未来を考えて戦争や平和に関心が向くのか、もともと関心があったのか。今週は敗戦特集号。この2人のようなどちらの若者にも、読んでほしい。(吉田亮子)