週刊金曜日 編集後記

1207号

▼本誌10月12日号(1204号)で、『ごみ収集という仕事』(コモンズ刊)著者・藤井誠一郎さんへのインタビュー記事を書いた。行政のごみ収集について知るべく、自身も収集の現場で9カ月にわたり働いたという異色の研究者だ。
 同書に出てくる新宿二丁目のごみ捨ての実態は、読むだけで吐き気をもよおす「無法地帯」だ(比喩でなく、私は読んで実際に吐きそうになった)。どれほどの惨状なのかを知りたい人は、同書を手に取って読んでみてほしい。記事では5刷と伝えたが、このほど6刷になったそうだ。
 ところで今、ごみ収集がテーマの本といえば『このゴミは収集できません ゴミ清掃員が見たあり得ない光景』(滝沢秀一著、白夜書房刊)も話題だ。著者はお笑い芸人をしながら、生計を立てるためにごみ収集員として働いている。
 2カ月だけごみ収集の仕事をしたことがある私も一言いいたい。キャットフードの空き缶はちゃんと洗って出せ。夏は暑さで腐敗して猛烈に臭いのだ。(斉藤円華)

▼先日の自民党総裁選について『孟子』をひいて「覇道の安倍に対し石破は王道を進め」と説く記事を見た。魯迅は王道と覇道を「実は兄弟」としてそのまやかしを批判したが、それでなくとも、その時代錯誤は、閣僚が「教育勅語」を持ち出すそれと変わらない。
 本誌10月26日号「"アベ的なもの"と闘う」には「安倍首相の『心の病』」という文言が見出しに使われている。心を病む人々が、安倍政権下でどのような目に遭っているのか。この見出しは、一見安倍自民党政権を批判するようでいて、その実、それと同様の差別的な価値観を本誌編集部が持っていることを露呈している。
 同号で『新潮45』10月号特別企画について清水晶子氏は、極端な主張で耳目を集める小川よりも、藤岡・松岡の論考に要諦があることを指摘している。清水氏の言葉を借りれば、安倍政権を批判するには、その「程度の極端さに私たちが目を奪われているときに何を見落としているのか」という視点を忘れてはならない。(原田成人)

▼引っ越し準備はパズルのようだ。荷造りしたダンボール箱を置くためには、床の空きをまずは確保しないといけない。本を詰めて、空になった本箱をずらして、ダンボール箱を積み上げて......。壊れかけの折りたたみ式ベッドを粗大ごみとして外に運び出して、ようやくまとまった空きが確保できた。
 処分できない資料の本が多すぎる。『資本論』関係が近年、急速に増えたのだ。マンガも結構ある。
 引っ越し会社のダンボール箱では足りず、ネット通販で追加注文。さらに、スーパーまで深夜に2往復して50箱近くを追加した。結局、会社の先輩の助けを借りて、ぎりぎりなんとかなったが、一人暮らしなのに2トントラックに積みきれないっておかしくないか、と自分で自分に突っこむ。疲労困憊。
 10月27日の読者交流会、28日の25周年記念集会に来て下さったみなさま、本当にありがとうございました。私の生気が少々ないように見えたとしたら、26日に引っ越したからです。広くなった新居で仕事に励みます。(伊田浩之)

▼「自己責任」論がかまびすしい中、ダルビッシュのツイートが小気味よい。さすがダルビッシュ、ますますファンになりました。
 ところで本誌10月26日号で、東照二先生が取り上げられていました。東先生の『選挙演説の言語学』(ミネルヴァ書房)、『言語学者が政治家を丸裸にする』(文藝春秋)などの著書は、政治家の言語活動が有権者に与える影響について、社会言語学的に掘り下げたものです。いつか『週刊金曜日』に出てほしいなーと思っていたのでした。
 有権者が特定の候補者に惹きつけられるのは話の内容よりも、そのしゃべり方。話の中身が大事だと思っている方が多いかもしれませんが、実はそうではないのですよ。最たる例が小泉純一郎氏で、なぜ有権者があれほどまでに熱狂したのか、小泉氏の計算されたしゃべり方に、有権者が見事にやられたというわけです。というわけで、非常に興味深い分野です。(渡辺妙子)