週刊金曜日 編集後記

1162号

▼自分勝手な「私」が頭をもたげたときは、いつも同じ話を聞かせてたしなめる。「時間に追われて急いでいると、公園の砂場にガラスの破片を見つけた。どうする? 放っておいたら遊びに来た子どもたちがケガをするかもしれない。それがだれかのためになるなら、気がついた人がすべきだろう」
 でも、ときに見て見ぬふりをしてしまうことがある。そんな情けない輩にとって、舛田妙子さんは真に尊敬すべき人だった。晴眼者と視覚障がい者の間に情報格差があるのはおかしいと、本誌の音訳版をボランティアで10年以上も作ってくれた。途中から相棒になった矢部信博さんとともに身を削る作業だったが、苦労はおくびにも出さず弱音を聞いたことはない。
「人だった」と過去形を使うのがつらく悲しい。しばらく前に体調を崩し、この6日、別の世界に旅立たれた。あっという間のことで、まだ実感がない。もう一度、カラオケで十八番の「見上げてごらん夜の星を」を聴かせてほしかった。ありがとう。合掌。(北村肇)

▼私はいまの人工知能(AI)研究を面白いと思っている。これまでも宗教や思想、哲学が、人の不完全さを引き受け説明しようとし対立もしてきたが、人工的に人の知能を再現しようとすると、人の限界や愚かさが科学的に明らかにできていくのだ。さてその「知能」だが、統一的な定義は人工知能学会にも存在していないそうだ。とはいえ「学習から特徴や法則を見つける」ということは知能の一つだ。たとえば昔ながらのコンピュータは人が入力した猫の画像データ以外は猫と認められなかった。優秀だが応用が利かない。画像解析AIになると大量の猫の画像データを学習することで特徴を抽出し、初見の猫でも猫だと分析可能になる。最近ではかなり少ないサンプル学習で解析可能になったという。原発事故や恐慌などがそうだが過去の情報だけに頼ると失敗する。しかし経験や情報からの法則を過度に一般化することも実は危険だ。となると情報や法則もない不確実さを歓迎する生き方こそ、愚かで不完全な、つまり人間らしさではないか。(平井康嗣)

▼近年の新しい用語で、使用頻度が高いものに「フェイクニュース」がある。今や、「マッカーシズム」を思わせる反ロシア感情が席巻している米国では、「ロシア発情報」と目されるのは大方、この種のレッテル貼りを免れない。だが、そうした報道姿勢が露骨な『ワシントン・ポスト』や『ニューヨーク・タイムズ』など、日本では「権威」と思われている新聞が報じたイラク戦争前の「フセイン政権の大量破壊兵器保持」こそ、最たる「フェイクニュース」だった。この二紙を筆頭に米国のマスメディアが今も流しているロシアやイラン報道の多くは、「フェイクニュース」にほかならない。そもそも米国外交の本質がウソと二枚舌である限り、そして米国というナチス顔負けの大量虐殺と戦争犯罪の常習犯が「まともな国」という前提で報道される限りにおいて、その翼賛メディアの報道も「フェイク」にならざるを得まい。(成澤宗男)

▼『朝日新聞』を読んでいて、日韓関係の悪化の象徴として嫌韓本と「慰安婦」少女像、米韓首脳の夕食会への元「慰安婦」の招待、を挙げる文章に出くわした。関係悪化は、日本側の差別と戦争加害の軽視忘却に主因があることになるはずだが、続く文章はこうなっている。「日本にいると、隣国は『反日一色だ』と思う人もいるのではないだろうか。」(11月16日東京本社版朝刊17面)この記者は「嫌韓本」と戦争被害者である「慰安婦」を同列に扱っている。本誌既報(9月1日1150号)の北米各地の「慰安婦」碑への日本政府の圧力や、現在サンフランシスコの「慰安婦」碑に大阪市がかけている圧力などは、この記者や、マスメディアのもつような倒錯した認識が支えているのだろう。
 このような日本政府や日本社会の戦争加害への態度を見ると、国際社会で、日本政府や社会が主張する「平和」というものについて自問が必要なのではないだろうか。(原田成人)