週刊金曜日 編集後記

1143号

▼人類の歴史は無数の残虐行為で彩られているが、同時代でその桁外れの殺傷者数と無類の非道さ、悪辣ぶりに関し、米国に勝る犯罪国家は存在しない。だが、同時に忘れてならないのは第2次世界大戦終了までの20世紀の歴史で、現代の米国に匹敵するような犯罪国家としてはドイツ第三帝国のみならず、大日本帝国も疑いなく同列にあったという事実だ。特に満州事変以降中国・華北で繰り広げた殲滅作戦は、毒ガスや細菌兵器の使用、想像を絶する規模の「火付け・強奪(労働力・食料)」、無数の性暴力等々に手を染め、近現代史上特筆すべきジェノサイドとして記録される。にもかかわらず「憲法第9条」を口にしながらこの国の民は自国が犯した悪行を現在もろくに知らず、知ろうともせず、挙げ句の果てに書店には「日本は侵略していない」「悪いのは中国だった」という類の破廉恥本が溢れている。残虐行為はさすがに消えたが、そうした恥知らずな様は、昔日の大日本帝国そのものに思える。だからこそ、「南京虐殺はなかった」などとほざく輩がいまでも後を絶たないのだろう。(成澤宗男)

▼大学の先生を取材する機会が続いた。いずれもベテランの教授。雑談になったとき、「昔と今の学生で、最も変わったと感じるのはどんな点ですか?」と聞いてみた。ある先生はしばらく考えた後、
「今の学生は優しいです。恵まれない境遇にある人に対して心を痛める気持ちは、昔の学生よりも持っている。ただ一方で、そもそもその状況を招いている元凶は何なのか、政治や制度上の問題と実態を結びつけて考える力が、昔の学生よりも劣っている気がします」
 翌日。別の先生にも同じ質問。
「貧しくなりました」
 即答だった。精神的な面の比喩ではなく、文字通りの貧困。「目に見えるところで言うと、学内の駐車場が昔は学生の車で常に一杯でした。今は見事にガラガラです」。生々しい話の数々に驚いた。
 最初の先生の話を聞いて、そうかダメなんだなぁ今の学生は、なんて思った自分を恥じた。学生の貧困の実態も知らず、彼らへの優しさもなく、結びつけて考える力もないのは、「大人」なはずの私の方なのだった。(小長光哲郎)

▼6月23日号43ページ「釜ノ越サクラはなぜ枯れたのか」の記事中、左上の咲きほこるサクラの写真は「釜ノ越サクラ」ではなく「十二の桜」でした。訂正します。
「十二の桜」は、「釜ノ越サクラ」の2キロメートルほど北に位置する「釜ノ越サクラ」と同じエドヒガン(ヒガンザクラ)です。「釜ノ越サクラ」を取材した時に、スマートフォンで撮影した4年前の写真を現場で表示して確認しましたが、サクラの種類が同じで枝振りも似ていたことから混同してしまいました。
 ここ10年以上、春の大型連休には山形を訪れています。動き出したら止まらないとされた国の公共事業である「大規模林道」(朝日~小国区間)を1998年に中止に追い込んだ自然保護団体の招きです。山形に限りませんが、現場に足を運ぶたびに発見があります。地域の課題が、全国的に考えるべき課題であることもしばしばです。今回も「地域おこし」のためにどこまで許されるかについて考えさせられました。「東京一極集中」に陥らない、ていねいな発信を今後も心がけます。(伊田浩之)

▼これはトカゲの尻尾切りではない。トカゲそのものをすっかり隠してしまおうという悪辣な意図を感じます。森友学園事件で大阪地検は、大阪府や国の補助金を不正受給したとする詐欺と補助金適正化法違反の容疑で強制捜査に乗り出しました。かりに籠池泰典前理事長が立件されるようなことになると、政権側は「この問題は一件落着」と強調するのでしょう。目に浮かびます。しかし、森友学園事件の本質はまったく別のところにあります。事件が明るみに出なければ、生徒に教育勅語を暗唱させるような小学校が誕生していた。しかも、現職の総理夫妻が応援していたのです。同じような私立学校が全国で生まれた可能性だってあります。いずれ、公立校に広がる危険性もありました。皇國教育の復活を目指す――これこそがトカゲの正体なのです。
 発売中の『週刊金曜日』臨時増刊号「特別編集 皇國ニッポン」はトカゲにスポットを当て危険性を指摘しました。加計学園問題はもちろんですが、「モリ」も忘却するわけにはいきません。(北村肇)