きんようブログ 社員エッセイを掲載。あの記事の裏話も読めるかも!?

◆橋下大阪市長への提案◆

〈北村肇の「多角多面」(126〉
「悲しみ」と「哀しみ」は違うのだなと思う。「悲しみ」の体験を心に深く刻み込みつつ、その感情をふっきるために他者の「悲しみ」を無視、あるいは軽視する。ときたま、そういう人に出会う。彼/彼女に対して私が抱く思いは「哀しみ」だ。

 橋下徹大阪市長が時折見せる屈折した表情が、以前から気になっていた。特に批判されたときの激しい反応は、自分でも止めようのないことへの苛立ちがあるように見えた。常に勝者でなければいけないとの強迫観念の背後で、他者にはうかがいしれない「悲しみ」を抱えているのかもしれないと、漠然と考えていた。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていくときに、どこかで休息させてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」

 問題になった一連の発言は、政治家としてはもちろん一人の人間として到底、許されるものではない。橋下氏は「誰だってわかる」と言い切る。彼の嫌いなタテマエを取り去れば、「誰だって慰安婦制度が必要と考えている」と思い込んでいるのだろう。

 その後、とりあえず「反省の弁」らしきことは言っているが、持論を取り下げたわけではない。むしろ、本音は変わらないよと強調しているようにしか映らない。

 もしそうなら、女性に対する侮辱はもちろん、男性をもバカにしている。私は性をカネで買う男を信用しないし、友人にはしたくない。人格的に問題があると考えるからだ。そして、そのことに同意してくれる男性はいくらでもいる。まして、「戦時性奴隷」の容認など論外だ。あたかも「必要悪」であったかのような発言には反吐が出る。

 歴史認識の歪みを含め、橋下氏には政治家としての資格も資質もない。即刻、退場すべきだ。その上で、自らの「悲しみ」に正面から目を向けてほしい。

 子どものころ、私はエリートになるんだと自分に言い聞かせていた。社会からあらゆる差別をなくすためには「力」が必要なんだと、まだ何もものごとを知らないくせに、幼い頭で考えていた。自らの弱い心、弱い精神を唾棄し続けた。そんな自分をいま、「哀しみ」の目で見つめる自分がいる。

 橋下さん、市長は辞め、人権弁護士への道を歩んだらどうですか。(2013/5/24)

◆「女性手帳」は民主主義への挑戦状だ◆

〈北村肇の「多角多面」(125〉
 安倍政権誕生後、少しのことでは驚かなくなった。でも、これは凄い。「生命と女性の手帳(女性手帳)」。国家が女性に対し「早く子どもを産みなさい」と圧力をかけるような代物だ。バカにするのもいい加減にしてほしい。

 森まさこ少子化担当相が主宰する政府の作業部会に「少子化危機突破タスクフォース」(座長・佐藤博樹東大大学院教授)がある。7日の会合で「女性手帳」が論議されたが、特に異論はなしと報じられた。このままいくと、2014年度から導入の運びだ。

「女性に対して、妊娠・出産の適齢期などに関する医学的な知識や情報を提供する」ことが目的という。なぜ、これが少子化の対策につながるのか。正しい知識があれば晩婚化や晩産化といった傾向に歯止めがかかるとの理屈らしい。手帳には「若いうちに結婚して出産すれば、健康なお子さんが生まれますよ」とでも書くつもりか。悪い冗談だ。

 確かに少子化は深刻な問題であり、早急な対策が必要である。しかし、やるべきことはほかにある。結婚したくてもできない子どもをつくりたくてもできない、そんな現状の改善が先決だ。貧困・格差社会では少子化になるのは当たり前だ。「子どもは国の宝」なら、経済的な不安のない中で出産できるような福祉政策が欠かせない。保育施設の充実も当然。産休問題など、男性を含めての労働環境整備も必須である。

 戦前、この国では「産めよ増やせよ」というスローガンが堂々とまかり通っていた。それは、個人より国家が優先される社会の象徴であった。個人の思想だけではなく、肉体をも管理する支配形態ともいえる。その反省から、戦後は個々の市民のプライバシー尊重に舵を切ったはずだ。

 自民党憲法草案24条はこう謳っている。

「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」

 女性は家にいて子どもを産んで育児をして夫を支えればいい――そんなおぞましい響きがある。もろもろの言動をみると、安倍政権は戦前回帰を目論んでいるとしか考えられない。しかし、時代錯誤と片付けてすむ問題ではない。ことは、人間の尊厳にかかわることだ。近代民主主義そのものへの挑戦なのである。(2013/5/17)

◆少数派「私たち」の力不足◆

〈北村肇の「多角多面」124〉

「5.3」前後はいつも無力感にさいなまれる。「8.6」から「8.15」までも同様だ。憲法を守ろう、平和を守ろうと声をあげる「私」は、「私たち」の存在を身近に感じる。でも、安易に「私たち」と表現したとき、その実体はかげろうのように薄らいでしまう。「私たち」とは異なる「彼ら/彼女ら」の吐き出す圧倒的な生命力の前に、かき消されてしまうのだ。

「私」を含めた「私たち」は、「私たち」の主張が「正義」であることを疑わない。平和、人権、自由を守ることは極めて正当であり、それらをないがしろにしようとする「権力者」を指弾するのは当然。しかし、「私たち」はこの国において絶対的な少数派だ。10人に1人どころか、100人に1人、1000人に1人かもしれない。これでは「彼ら/彼女ら」の視界には入らないのではないか。少なくとも関心の外だろう。そして、実は「彼ら/彼女ら」こそが「生活者」そのものなのだ。

 いま自民党の支持率は50%前後。一体、どうやって「彼ら/彼女ら」を取り込んだのか。十分な解明はできない。ただ、このことだけは言える。人も組織も、「正義」をかなぐり捨てたとき、大きな“力”を手にできる。いかなるウソも詭弁も許されるからだ。しかも、カネや権力、権威を自由に使えるのなら怖いものなしである。

 ふと、天を仰ぎ嘆息したくなる。どうして「彼ら/彼女ら」は誘惑に負けてしまうのか――。でも、こうしてため息をついている限り、永遠に「彼ら/彼女ら」は「私たち」にはならない。「正義」を振りかざした人間から、民度が低い、お前たちが悪いと言われ、反発しない人はいないだろう。ウソや詭弁にまみれていても、同じ目線に立っているとの幻想をふりまく自民党にシンパシーを感じているのだ。

 繰り返すが、いかに「正義」を標榜しようとも、「私たち」は断然少数派である。「彼ら/彼女ら」に見捨てられたのだ。この現実を見つめ、すべては「私たち」の力不足によるものと認識しなくてはならない。力不足の中には、「彼ら/彼女」らをウソや詭弁にだまされる低い存在として見ていた姿勢も含まれる。

「生活者」には憲法よりその日のメシのほうが大事だ。「私」はまず、このことをしっかりと自分の中で咀嚼したい。その上で、人権が守られない社会では「好きなものを好きなときに食べる」自由すら奪われるということ、政治が憲法の精神を具現化することにより、最低限、文化的な生活が保障されることなどを「彼ら/彼女ら」に伝えたい。決して上から目線になることなく、しかし堂々と自信を持ち、ぶれることなく。(2013/5/10)

◆同性婚はもはや世界の常識になりつつある◆

〈北村肇の「多角多面」(123〉
 同性婚を認める流れが欧米で勢いを増している。いつものごとく、人権面ではことごとく立ち後れの日本は、蚊帳の外状態だ。

 去る1月、オバマ米大統領は2期目の就任式で、選挙公約の「同性婚容認」を進める姿勢を色濃く打ち出した。報道によれば、演説の中に以下のような一節があったという。

「わたしたちの旅は、ゲイの兄弟たち、レズビアンの姉妹たちがあらゆる人と平等に扱われて初めて完全なものになる。人間が真に平等につくられているのなら、互いに誓い合う愛も平等でなければならない」

 恒例になっている就任演説前の詩を朗読したのは、同性愛を公言している、キューバ系米国人の詩人、リチャード・ブランコ氏だった。また3月には、次期大統領選出馬が囁かれるクリントン前国務長官も、初めて同性婚支持を明言した。

 欧州ではどうか。フランスでは12日、上院で同性婚解禁法案を挙手による賛成多数で可決した。本誌既報の通り、国民議会(下院)は2月に可決したが、カトリック強硬派、極右らの反発デモが続いていたという。すでに、2001年にオランダが同性婚を認める法律を施行、05年にはスペインも続いた。もはやこの滔々たる流れは止められないだろう。

 一方、夫婦別姓ですら導入できない不思議な国、日本では、同性婚が大きな話題になることはない。反対理由にあげられるのが憲法24条だ。

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」

「両性」とあるのだから、「男性と女性の合意」でしか婚姻は成立しないとの判断だ。まるで説得力はない。「両性の合意」とは、あくまでも「婚姻の意思のある二人」ということだ。一方の強制でなされることを禁じているのであって、同性婚を妨げる趣旨ではない。

 自民党議員の大半はかねてから、個人の権利より家族の絆が大切という理屈にならない理屈で夫婦別姓に反対している。同党の憲法草案は基本的人権をないがしろにしている。ジェンダーバッシングで悪名高い高橋史朗明星大教授が男女共同参画会議議員に任命された。この国は100年遅れている。(2013/4/26)

◆新入社員に望むのは、ひたすら失敗すること◆

〈北村肇の「多角多面」(122)〉
 久しぶりに新入社員が入った。男性2人、女性1人。やはり雰囲気が変わる。初々しい緊張感は、古狸が狐の面を被ったような私にも伝わり、心地よい。

 若い人には毎度、同じことを話す。

「とにかく失敗してください。たくさん考え、たくさん動き回れば必ず失敗します。でも、そのうち必ず成功することが増えます。失敗を恐れて何もしなければ成功はやってこない。絶対に萎縮しないでください。ただし、同じ失敗を3回繰り返したら見捨てます」

 10回失敗して1回成功するのと、失敗も成功もゼロではどちらの評価が高いのか。言うまでもなく前者だ。しかし、どうもそうではないと考えている人もいるらしい。後者の点数はゼロだが前者はマイナス9という発想だ。こういうタイプを私は、算数はできるが哲学のわからない愚者と呼ぶ。

 40年近い社会人生活を振り返り、一つの真実に行き当たる。挫折を知らない人間は頭打ちになる――。時折、人並み外れて「お利口」な若者がいる。危機回避能力が高いという点での賢さだ。表面的な対処能力には優れているので、巧みにリスクを避けることができる。当然、失敗の経験がほとんどない。

 このタイプは上司にとっても使い勝手がいい。要領よく立ち回る能力があるからだ。しかし、ほとんどの場合、彼ら/彼女らが期待通りに成長することはない。当たり前と言えば当たり前。成功は失敗の積み重ねから生まれる。そこに突っ込まず頭で考えている限り、骨太の「仕事人」になれるはずもない。

 ただ、本当に反省すべきは若者ではない。部下の失敗を極度に恐れる管理職こそ諸悪の根源だ。上ばかり見ている管理職は、自分の評価を高めることに腐心し、ひたすらリスク回避に走る。だから、問題を起こす部下は許さない。

 懐の深さが消失した社会と言われる。失敗を受け入れない社会が健全であるはずはない。ミスを笑ってすますのは「甘やかす」ことではない。むしろ、多大な期待の裏返しだ。「自分で乗り越えなさい、ここで見守っているから」といっているわけだから。

 ちなみに、これまで「見捨てた」部下はいない。(2013/4/19)

◆被害者を生まない「罪」は「罪」なのか◆

〈北村肇の「多角多面」(121〉

 パチンコをしている生活保護者を見かけた市民は通報しなくてはならない。おぞましい限りの条例が兵庫県小野市でつくられた。監視社会ここに極まれりといったところだ。同時に「罪とは何か」についても頭をめぐらせた。

 ケン・ローチ監督の「天使の分け前」を観た(一般公開は4月13日予定)。今回はコメディータッチの作品だ。ワルだけど憎めない4人組が一世一代の盗みをはたらく。その行為自体は「罪」だが、不幸になる被害者は一人も存在せず、逆に何人もが幸福になる。これ以上のストーリー紹介は無粋になるのでやめよう。

 前作の「ルート・アイリッシュ」はイラク戦争の戦争請負企業・戦士に焦点を当てたものだ。権力の罪が個人の罪を誘発する悲劇を描いた作品は重厚に仕上がっていた。ケン・ローチ監督は意識的に二つの作品を続けて撮ったのだろう。

 形式的には罪でも実質的には罪ではない。実質的には罪でも形式的には罪とされない。この矛盾が社会の隅々にまで紙魚のようにへばりついている。社会派として広く認知された監督のメッセージ、それは「罪とは何かを考えよう」であったように思う。

 生活保護を受けている人が息抜きにパチンコをするのが罪なら、その被害者はどこに存在するのか。仮に、税金の無駄遣いで納税者が被害者というのなら、比較にならないほどの無駄遣いをいくらでも例示することができる。

 かつて何人かの生活保護者に取材した。彼/彼女に共通していたのは「罪の意識」だ。そんなことはないと記者の私が強調したところで、それは心に響くものではない。どうしたって高見からのきれいごと発言でしかないからだ。

 さまざまな事情で働きたくても働けない。そんなとき、税金から支援を受けるのは当然の権利である。しかし、実際に保護を受ける立場の人にとり、それは屈辱であったり罪であったりする。この柔らかで傷つきやすい心に塩を塗る、そんな行為こそが確実に不幸な被害者を生む罪であろう。

 本当に断罪すべき罪は、生活保護者を生んでいる社会そのものにある。さらに言えば、憲法25条を具現化できない統治権力者こそ真の罪人だ。そして絶えず心に留めておこう。弱者に弱者批判をさせるのが、いつの時代も彼らの手口であることを。(2013/4/12)

◆ゆとり教育を受け入れるゆとりがなくなっている◆

〈北村肇の「多角多面」(120〉

 学校週6日制への流れが加速している。ゆとり教育が学力低下の原因だと自民党は主張するが、根拠薄弱だ。詰め込み教育のほうが「考える能力」を損なう点でよほど問題だろう。だが、市民の中で6日制への期待が高まっている理由は、別のところにある。一言で言えば、子どもの面倒をみる余裕がなくなってきているのだ。

『朝日新聞』とベネッセ教育研究開発センターは4年に1回、共同で小中学校保護者意識調査を実施している。その3回目の結果が先月、報じられた。それによると、土曜日に授業をする「学校週6日制」への賛成は80.7%に達した。内訳は「完全6日制」が23.4%、月2~3回授業をする「隔週6日制」は57.3%だった。

 完全週6日制を望む保護者を学歴別にみると、「父母とも非大卒」が24.5%で、「父母とも大卒(短大を含む)」の20.5%を4ポイント上回った。また、経済的に「ゆとりがある」層が20.3%だったのに対し、「ゆとりがない」層は25.5%と5.2ポイント高かった。背景には、「学習塾などに行かせる余裕がない」「共働きで子どもの面倒を見られない」という事情があるとみられる。

 さらに衝撃的なのは、教育格差に関する認識だ。「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」を「やむをえない」と答えた人が半数を超える52.8%に達した。前回調査では40.0%だったので、実に12.8ポイントも増えている。「当然だ」の6.3%も合わせれば59.1%だ。これに対し「問題だ」と答えた人は39.1%にとどまった(前回は53.3%)。「やむをえない」と答えた人の割合は、「ゆとりのある」層のほうが高く62.0%。これに対し、「ゆとりのない」層は48.1%だった。ただ、増加率をみると、それぞれ12.8ポイント増、12.6ポイント増とほとんど変わらない。もしこれが「ゆとりのない」層の“あきらめ”の表れなら事態は極めて深刻だ。

 立命館大学の陰山英男教授は「勉強時間を増やすだけでは学力が上がるとは限らない。世界一の学力といわれるフィンランドなど、欧米はどこも週5日制。日本も平日5日間で必要なことを教える枠組みを考えていく必要がある」と唱えている(『東京新聞』1月30日付朝刊)。ゆとり教育の理念が間違っているとはとても思えない。しかし、そうではあっても「子どもはなるべく学校で面倒をみてもらうしかない」のだとしたら、それは社会そのものの問題だ。大人も子どもも、ゆとりがなければ日々、生きることに汲々とならざるをえない。安倍政権の狙いが、そうした事態の解消どころか、ますます市民の「考える力」を奪うことにあるのなら、断固として許すわけにはいかない。(2013/4/5)

◆顔は心で見る◆

〈北村肇の「多角多面」(119)〉
 自分の顔を見るのはどのくらいだろう。せいぜい1日に10回程度。これが他者の顔となると数え切れないほど見ている。なぜ、自分の顔を見られるような位置に目はついていないのか。顔は見るものではなく見せるもの。だから、人はいろいろと顔に細工をしたりするのかなと、思ったりもする。

 でも、人間がきわめて機能的にできていることを考えると、少し変だ。確かに顔は見せるもの。が、絶えず自分の顔を見ることができるようにしておけば、対人関係でもプラスに働くだろう。

 実は、自分の顔は目ではなく心で見るものではないのか。だから、別に鏡などなくともいつだって見ることができた。ところが、他者への関心が増えていくうちに、他者の目に自分がどう映っているのかが気になり、相手の目の中の自分を自分として見るようになってしまった。そして、いつしか本当の自分の顔を見る力を失ってしまった――。そんな気がしてならない。

 そもそも顔は固定した物体としてそこにあるわけではない。生きている人間の内奥から絶え間なく生み出される「何か」が瞬間、瞬間、つくりあげていくものだ。その動きや流れを目で見るのは至難のわざだろう。でも、心なら見える。

 だとすれば、他者の顔も本来、目で見るものではない。かりに目で見たとしても、その信号をもとに心で見なくては、本物の顔は見えないはずだ。

「心眼」という言葉を、生きていく日々の辞書に改めて書きとめる。まずは自分の顔を心で見つめることを日課にしなくてはならない。引きつってはいないか、おもねった笑いではないか、小心な怒りを見せてはいないか、歪んだ涙を流してはいないか……。それから今度は、他者の顔を心で見る。

 テレビを捨ててから長い時間がたつ。もっぱら重宝しているのはラジオだ。声こそ心眼で「見る」しかない。慣れてくると、たとえば政治家の虚言や自信のない顔が見えてくる。就任当時の安倍晋三首相から感じ取れたのは「とまどい」だった。ああ、この人は総理になる気がなかったのだなとわかった。最近は高揚感が滲み出ている。ただし、それは揺るぎないといった感じではない。いかにも浮ついている。根っこがないのだ。どんなに支持率が上がろうと、安倍政権は長続きしないだろうと思う所以である。(2013/3/29)

◆覆面姿で議場に入り、何が悪い◆

<北村肇の「多角多面」(118)>

 こういう騒ぎが起きるたびにイラッとする。大分市議選で初当選した覆面レスラーが、3月の議会で議場に入ることを拒否された。覆面を着けたままでの入場は「議会の品位を欠く」からだそうだ。

 無所属のスカルリーパー・エイジ議員は覆面姿で選挙運動をし、当選した。その格好で議会に赴き何が問題なのか。報道によれば、会議規則は議場での帽子や外とうの着用を認めておらず、覆面は帽子の類いに該当するという。18日の本会議で圧倒的多数により、正式に決定された。笑止千万。

 覆面レスラー議員としては元岩手県議のザ・グレート・サスケ氏が有名だが、同氏の場合は素顔の確認を条件に覆面着用が認められたという。なりすましの可能性を考えれば確認はやむなしだが、あとは有権者の判断に任せればいい。スカルリーパー氏は「このままでは仕事が出来ない」として議会決定を受け入れた。さぞ無念だろう。

 そもそも「品位」とは何か。パリッとしたスーツ姿の議員が聞くにたえないヤジを平然ととばす。国会から地方議会まで、さまざまな議場で目撃した。彼らこそ議場に入れなければいいだろう。鉄面皮のほうが余程、たちが悪い。

 覆面だろうが金髪だろうが、議員としての仕事さえしていれば何の問題もない。姿格好で評価するなら、公約は無意味ではないか。

 覆面議員の話は地方議会の問題にとどまらない。長髪はダメ、丈の短いスカートはダメ……。一部の教育現場では相変わらずとんちんかんな「人格教育」が行なわれている。校則でがんじがらめにしてどんな生徒をつくろうというのか。「形式だけ整えておけばいい」という発想の人間が大量に生まれたら、どんな社会になってしまうのか。

 安倍晋三首相の推進する復古教育は、形式主義の品位重視につながる。身だしなみを整えるのはもちろん、教師にはきちんとあいさつし、「日の丸」には45度のお辞儀をする――。「君が代」を大声で歌っているかどうか計測するという馬鹿げた事例が大阪であったが、あほらしいと笑ってすますことはもはやできない。

 右向け右の強制と規則だらけの社会。想像しただけでイラッとする。「自由」より「公の秩序」が重要だなんて、冗談ではない!(2013/3/22)

◆自民党憲法草案のトンデモぶり◆

〈北村肇の「多角多面」(117)〉

 前回衆院選に対し違憲判決が次々と出ている。資格のない議員が立法府に居座っているわけだ。ところが、違憲状態にある安倍政権は憲法改定に向けてひた走る。もはや漫画か悪い冗談にしか見えない。先頃、連立与党・公明党の漆原良夫国対委員長が「個人の意見としては96条だけなら改正していいと思っている」と発言した。いわゆる「3分の2条項」が緩和されれば、憲法改定のハードルはかなり低くなる。維新の会、みんなの党、さらには民主党議員の一部も改憲派とあっては、96条改定の危険性が高まってきたのは間違いない。そこで、改めて自民党憲法改正草案(以下「草案」)の検証をしておきたい。

 何よりも許し難いのは、憲法の性格をアベコベにしていることだ。言うまでもなく憲法は「権力を縛る」ものである。現行憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とうたっている。ところが、草案では102条で「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と書かれている。まるで、国民を奴隷扱いしているようなものだ。目が点になる。

 現行憲法前文には「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とある。つまり今の憲法の原理に反する一切の憲法は認められないわけで、草案自体が憲法違反といってもいい。極論すれば、首相が堂々と国会で憲法違反を宣言しているのと同じだ。
 
 問題の「国防軍」創設を定めた草案9条の二には「国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める」との項目がある。秘密保全法とのセットだ。さらに5項には「国防軍に審判所を置く」とある。また、現行18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」が草案では「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」と変わっている。徴兵制を可能にするためだ。これらをみると、軍事体制国家の確立を目論んでいるとしか思えない。

 草案12条「国民の責務」には「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とあり、21条「表現の自由」2項は「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」となっている。要約すれば「国家に異議申し立てをした組織、個人は許さない」ということだ。

 曲がりなりにも「平和な民主主義国家」の道を極端に外すことなく来た日本が、まったく別の国家になる。それが自民党草案の本質である。(2013/3/15)